日本西洋史学会第63回大会小シンポジウム「近世ヨーロッパにおける礫岩国家 ―複合する政体、集塊する地域―」

2013年5月12日(日)に京都大学で開催される日本西洋史学会第63回大会において、「近世ヨーロッパにおける礫岩国家 ―複合する政体、集塊する地域― 」 と題したシンポジウムを行います。(2013年5月12日(日)13:30〜17:00、百周年時計台記念館 2 階 国際交流ホール I )平成22年度より科研の助成を受けて推進されてきた本研究を総括するシンポジウムです。(このページでは、各報告者の皆さんから寄せられた報告要旨を掲載します。なお、この報告要旨は日本西洋史学会で配布される予稿集と同じものです。)

【趣旨説明】近世ヨーロッパにおける礫岩国家 ―複合する政体、集塊する地域― 古谷 大輔(大阪大学准教授)

 近世ヨーロッパの政治秩序をめぐる近年の研究は、同時代の独特な言語空間のなかに、中世以来の伝統を踏まえた政治社会や、人文主義に培われた価値観を継承する政治思想のあり方を探求してきた。近世史研究の最前線は、「複合国家」や「普遍君主」などの分析概念を提示した近年の議論を踏まえつつ、近代主義の予見を排しながら近世国家そのものを熟考すべき地点に達している。同時にその作業は、世界史的な文脈において各文明圏にみられた政治秩序との比較研究への見通しももつべきだろう。本シンポジウムは、こうした研究史への認識に立ち、各地に独特な政治社会のニュアンスを踏まえた国家理解を深めるべく、ヨーロッパ東西南北に見られた国家編成の事例を比較する。各々の報告は、様々な形質をもった礫が固結してできる「礫岩」という地質学用語に準えながら、各地域が集塊する国家の輪郭をダイナミックに描き出すことを共通の目標としている。この作業を通じて本シンポジウムは、他文明圏の複合的な政治秩序と比較可能な分析枠をヨーロッパ史研究から発信する手がかりを探る機会ともしたい。


 近世を近代への前史/移行期としてとらえる進歩史観が批判されて久しい。ヨーロッパの16~18世紀とは宗教戦争、王位継承をめぐる係争、同君連合、主権国家、公共善、そして啓蒙の時代であったが、また各地で人文主義の政体・秩序論を継承しながら、それぞれの課題をめぐって議論が展開した。政治秩序に焦点を合わせてみるなら、注目されるのは「絶対王政の社団的編成」「信教国家」とともに、「複合君主制」「集塊」「礫岩国家」「普遍君主」といった概念である。本シンポジウムでは、こういった概念の研究史的な意義を確認し、この間の H.ケーニヒスバーガ、J.エリオット、J.ポーコック、J.モリル、二宮宏之などに領導されたヨーロッパ各地域の(またそれを越える)政治社会や思想の研究と議論をふまえて、現時点のパースペクティヴを呈示したい。J.フォーテスキュによる dominium politicum et regale という概念も再評価されるべきだろう。近世はまたヨーロッパが非ヨーロッパと交渉し、学ぶ時代でもある(The world is not enough)。より広い世界史的な適用の手がかりも得られるだろうか。


 近世スウェーデンは、バルト海世界における軍事的覇権をもとに、便宜上「バルト海帝国」と通称される広域支配圏を築いた。一般的に「バルト海帝国」はスウェーデンの軍事的保護を承認した福音主義ルター派を奉じる諸地域政体の複合体として理解されている。しかしバルト海東岸、フィンランド湾奥、ドイツ北部へ拡がった支配圏に服属する地域政体は中世以来のスウェーデン国法を共有しなかったため、「バルト海帝国」における統治権力と服属地域の接合関係は一様ではなく、独自の秩序観を育んできた服属地域との交渉により多様なパターンで彩られていた。一つの複合的国家編成に多様な接合関係の併存を確認する際、長らくデンマークに属したスカンディナヴィア半島南端のスコーネ地方の併合過程は、16世紀後半から17世紀前半にかけての支配圏拡張の経験や大陸ヨーロッパの君主政体の情報を参照しながら、様々な接合関係の組替が試みられた点で興味深い。本報告では、スコーネ併合をめぐる王国政府と地域住民との交渉過程から、「バルト海帝国」の政治言説に保たれていた多様な地域集塊の論理を提示したい。


 近世イギリスにおける複合的国家編成は、1990年代以降、「ブリテン」あるいは、イングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国」の問題として注目されてきた。本報告は、1650年代クロムウェル政権下で構想された、イングランド・スコットランドの法の合同論を手がかりに、君主のいない共和国という新体制による、礫岩国家再編の試みを検討する。両地域の法の合同は、1603年の同君連合の形成時より議論され、共和制下の数年間にのみ実行に移された。この同化計画は三王国の復古によって頓挫し、1707年の議会合同までに現実的選択肢から除外されてゆく。しかし、その交渉の過程では、両地域の法の独自性と正統性の意識が研がれ、各ネーションの歴史的アイデンティティに編み込まれていった。さらに、これらの議論がローマ帝国から東欧、北欧、スペインの合同まで、ヨーロッパ諸国の古今の複合政体の事例を参照し、一人の主権者と議会、各ネーションの特権と法の問題を論じたことは興味深い。本報告はこうした観点から、法の合同論の提起した問題をヨーロッパ的文脈に置き直し、近世史における複合国家論の射程を検証したい。


 近代歴史学において、長らくハプスブルク帝国は「近代国家形成の失敗例」と認識される傾向があった。しかし、複合国家論・複合王政論の登場に伴い、主権国家や国民国家とは異質な複合的国家形態を保持し続けた国家として、近年では逆に再評価される風潮がある。これに対して本報告は、16世紀ハプスブルク帝国の複合的国家編成が非常事態に対応して選択された現実主義的な礫岩国家編成であったことを、固有の国制的伝統を有する服属地域からの集塊理論を分析することで明らかにしたい。とりわけ、神聖ローマ帝国圏外のハンガリー王国がオスマン戦争期にいかにしてハプスブルク朝への(離脱や組替を含む)集塊を正統化しようとしたのか、1560-70年代の後期人文主義者の諸理論(オラフスのsacra corona論、フォルガークのpatria論、ラコキウスのimperium論)を中心に検証する。その際、3者によるハンガリー王国内部の社団の集塊論をも検討する。これによって、君主と服属地域との間には、国家の集塊のあり方に関して複数の複雑な交渉が常に存在したこと、集塊の仕方が異なれば、国内の社団の集塊のあり方も必然的に相違したことを指摘したい。


 スペイン王国は、18世紀初頭のブルボン朝の成立を機に、ハプスブルク朝でみられた複合君主制としての国家編成から脱却すべく、中央集権的な統一国家の形成へと舵を切ったと言われている。この新たな統治システムへの変革は、1707〜16年に順次制定された「新組織王令」と総称される一連の法令によって開始された。イベリア半島で内戦の様相を呈したスペイン継承戦争で、ブルボン王権に「征服された諸地域」へ公布された王令は、古くからそれら地域に保たれてきた独自の法制に基づく政治的な自立を原則的に無効とした。しかし実際には、征服地域の事情に応じて存続が認められた制度に違いがあり、これによって集権的な君主制国家への移行が完成されたわけではなかった。本報告では、この「新組織王令」を複合的国家編成から集権的国家編成への分岐点として強調するのではなく、ハプスブルク朝期から普遍王国を構築すべく掲げられていた制度一元化の理念の延長線上に位置づけながら、集権的統一国家の理念と複合的国家編成という実態との矛盾を制度的に解消する妥協の産物として読み直すことにより、その意義を再検討したい。

コメント:内村俊太(上智大学助教)近世スペインにおける歴史意識研究の立場から

コメント:渋谷 聡(島根大学教授)近世神聖ローマ帝国研究の立場から